オンナの性欲が「わらい」になるとき

オンナの性欲が「わらい」になるとき

なぜこの状況が「わらい」というものに変換されて絵に表現されるのか。

わたしはまったく怒っていない。ただただ不思議だったのだ。

 

鎌倉時代から江戸時代の多くの性に関する文献を見ていると、様々な表現はある時突如として登場したというよりも、歴史や生物的な事柄の積み重ねであることはよくわかる。

性の営み(つまり”生きること”!)を描いた日本における春画は「わらい」と密接であり、即物的な興奮を促すだけではなく、教訓めいたものやその当時の流行までも描く。

 

その表現の中のひとつに「女性の果てることのない性欲と、それに懲りる男性」というパターンがある。男性が女性の果てのないセックスの相手になり、途中からそれが男性にとっての苦しみとなり、男性はすっとんで逃げたり、もう許してくれと懇願するのだ。

この表現が当時の春画の読者に受け入れられていたのは何故だろうか、そしてこの関係において性別が逆転したときはどうだろうか。

 

 

鎌倉時代に描かれた『袋法師絵詞(ふくろほうしえことば)』のはなしのあらすじは、ある好色な法師が尼御前に仕える三人の侍女に親切にすることを装って肉体の関係を持つところからはじまる。

 

 

後日その御所を訪ねると、法師は大きな袋に入れられて袋の穴から男性器だけを引っ張りだされて性の欲求を満たせていない尼や侍女たちの相手をさんざんさせられることになる。

 

 

そのうち法師が性の相手として使い物にならなくなると新しい笠と法衣を与えられ、法師は山寺に帰されるというはなしだ。最初は侍女たちを騙して法師が性的欲求を満たそうとするが結果的に利用されたのは法師であり、性的に法師が使えないとわかると用は無いから帰されたのだ。

 

車浮世氏の『春画入門』によると、この絵巻の原本江戸大奥にあったそうだが天保年間に消失したようだ。しかし人気の絵巻物だったようで消失する前に描かれた写本は多く残っているようだ。

 

 

春画やその他物語の題材として多く利用された伝説からも紹介しよう。

 

『女護島(にょごのしま)』は日本に伝わる伝説上の地名である。この女護島が登場する話はいくつか存在する。その島では驚くことに女性しか生まれないのだ。

 

今回紹介するはなしのあらすじとしては女護島に舟で到着した三人が島の女性たちに厚く歓迎されるとことからはじまる。

 

 

島の女性たちにもてなされた男性たちは当初は期待に胸も股間も大きく膨らませこれから起こるひとときに頭の中はお花畑だ。

 

 

しかし最初は楽しく交わり続けていたが島の女性たちはまったく果てることなく、セックスは延々とつづき男性三人は徐々に体力を奪われていく。

 

 

最終的に男性たちは急いで舟に乗り、逃げるように女護島を離れるという内容だ。

 

ここでもまた男性たちが女性の果てなき欲求により痛い目に合うという内容になっている。

 

 

江戸期の性典物(性について書かれたハウツー本)を読んでいると、女性の性の欲求は終わりがないが、男性はセックスをしすぎると「腎虚(じんきょ)」と呼ばれる病になり身体が衰弱していくと考えられていたようだ。

 

この果てのない女性の性欲は男性の権力にも負けないようだ。

 

1823年の歌川豊国による『絵本開中鏡(えほんかいちゅうかがみ)』では大奥に仕える老女がこれから殿の妾となる17歳の娘に話しかけるところからはじまる。

老女は殿の妾となるならば夜の御伽(おとぎ)が大切だと教え、妾は恥ずかしそうにしながらも殿のために誠心誠意尽くすことを心に決めるのだ。

 

 

殿にとって娘は初めての側女(そばめ)であるため一段と可愛く思え、高価な性具や薬を使い娘と交わりをつづける。どうやら娘が来てから三か月は昼は二回ほど、毎晩五回は交わりを行うようだ。

 

妾の娘は嫌がることもなく殿の交わりの相手となるが、殿の容態に異変が起きるようになる。

 

 

殿は交わりのしすぎで「腎虚」という病になり、すっかり衰弱してしまった。殿の容態は座敷でも噂となり、原因は妾の娘との交わりであることも知れ渡っていた。

妾の娘は交わりを止めるどころか常に殿と一緒にいて交わりつづけた。殿は咳き込みながら弱る身体の力をふり絞り、大好きな娘と交わり続けるのだあった。

 

 

さてさて、ここでみなさんで考えてみましょう。紹介した画中の男性たちを見て、読者のみなさんはどう感じたであろうか。

 

「あはは、侍女を騙すからあんなことになるんだよ。馬鹿な法師だな。」

「女性たちしかいない島なんて憧れるけど、やっぱりパートナーはひとりでいいや。自分にはもてあます。」

「殿も馬鹿だな。途中で止めればいいのに。セックスはほどほどにしないとな。」

 

などと、ぼんやり思ったであろうか。どこかこれらの内容は、性に対する教訓のようなものが見え隠れする。そして興味深いことに「男性の果てしない性欲によって女性が痛い目をみる」という性別が逆のパターンは見かけないのだ。

 

これらの教訓めいたストーリーの捉え方として、こんな見方はどうだろうか。

「女性が男性よりも、ある能力において優れている可能性があるにも関わらず、それに気づかず男性がある種の痛い目を見ている。」

 

もし家父長制の社会において、当時の世の中の人々が女性が優位になることに心から脅威を感じていたら、これらの脈々とつづくはなしのパターンは受け入れられただろうか。

大奥に受け入れられたであろうか。それともあり得ないファンタジーであり虚構であるからご紹介したような物語が受け入れられたのであろうか。

 

 

わたしは笑えなかったこんな絵がある。上の絵は歌川国貞が描いた「春色初音之六女(しゅんしょくはつねのうめ)」の一図なのだが「婦多川の寄せ場の戯れ」というタイトルがつけられ、嫌がる丁稚であろう少年に四人がかりで女性たちが性的な暴行をしている。

絵師は何を意図してこの絵を描き、当時の読者たちはどのような感情でそれを見たのだろうか。

 

 

「春色初音之六女(しゅんしょくはつねのうめ)」には上のような絵もある。今度は男性たちが娘に暴行を行っている。先ほどの絵と何か違和感を感じないだろうか。先ほどの絵のように「戯れ」なんて雰囲気は全くなく、醜く描かれた男性たちが娘に乱暴をしている。

 

この二枚の絵の違いはなんだろうか。強姦図では多くの男性はかなり醜い容姿で描かれており、見る側に強烈なメッセージを伝えてくる。

 

 

葛飾北斎『喜能会之故真通(きのえのこまつ)』でも同じように強姦をしている男性は醜く表現されている。春画の解説書によると「頭が悪そうで醜い男が強姦をする」というエクスキューズとともに描かれているらしい。また時には強姦図は「男性に襲われたときの対処法」などの文が添えられた表現になる。

 

しかし性別が逆になると(女性が男性に性的暴行をすると)ある種「わらい」となるのだ。

 

これらの強姦図において「春画では性暴力も許すことはなく、男性たちは醜く描かれたのです」という説明を見かけることがある。しかし「性暴力反対!!!」というメッセージを娯楽でもあった春画の本に入れ込むのであろうか。他のページは「わらい」とともに和やかなセックスや愉快なセックスが描かれているのに。

 

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『トゥエンティワン・レッスンズ』という本に面白いことが書かれていた。2015年の映画『エクス・マキナ』は一見してAIの専門家が女性ロボットに恋をし、まんまと騙されて操られる話のように見える。

しかし現実にはこれは高い知能を持つ女性に対する男性の恐れ、特に、女性解放が女性上位につながるのではないかという恐れについての映画だと著者は言っている。人口知能の映画ではなくフェミニズムの映画だと。なぜならAIが性的アイデンティティやジェンダーを持っていることに意味があるのか?と著者は疑問を読者に投げかけている。

 

仮に紹介した絵のような「性に貪欲な女性」が理想とされたのであれば性典物に「淫乱な女性を治す方法」が書かれるのは何故だろうか。「性に貪欲であること」と「淫乱であること」は別物なのか。そして「女性の性の欲求が盛んである」ことは現実では「恐れのないファンタジー」だから手放しで笑うことができ受け入れられてきたのだろうか。

 

多くの物事はシンプルかつ感情を動かすように表現されるが、実際はかなり複雑で歴史と生物的な事柄の積み重ねであることを知らないといけない。

そしてわたしたちも決して無関係ではないのだ。

 

 


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カンレン

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